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1話 チョコとパンジー《2》

作者: 砂原雑音
last update 最終更新日: 2025-03-05 22:21:32

「すみません。どんくさくって」

たったあれだけの作業で手間取ってしまって、きっと呆れられた。

恥ずかしくて顔が熱くなるのを感じながら俯いていると、くすくすと笑い声が上から落ちてくる。

「仕方ないよ、まだ一週間だし……何より、教えてくれるはずのマスターがアレだしね」

「はあ……」

笑ってくれたことに少しホッとしたのと、『アレ』と含みを持たせた言い方に私もつい苦笑いを浮かべてしまう。

確かに……とカウンター奥の階段に目をやる。

階段が続く二階は住居スペースになっているらしい。

このカフェのマスターである一瀬さんはそこで暮らしていて開店の十分程前に降りてくる。

「教えるとかほんと向いてないよな、あの人」

「いえ……そんなことは。私が気が利かないだけで」

一応、マスターの顔を立ててそう言ったけど、零れる苦笑いは隠せない。

確かに、あの人は教えるつもりがないのか、もしくは「見て覚えろ」とスパルタ系の人なのかと思ってしまうほど、バイト初日からほったらかしだった。

見兼ねた片山さんが厨房から出てきて指示を出してくれるまで、私はおろおろとマスターから数歩離れた距離を保ってついて回るだけだった。

『わかんないこととか、何したらいいか、とか、ちゃんと口に出して聞けばいいよ。男ばっかで聞きづらいかもしれないけど』

片山さんがそう私に声を掛けてくれて、そのことで漸く気付いてくれたらしい。

『じゃあ、伸也君。三森さんに仕事を教えてあげてください』

きっとその瞬間まで、『教える』という事項はマスターの頭の中になかったんだと思う。

「じゃあ、って。バイト初日の子が居たら普通、何からしてもらおうかくらい考えとくもんだよな」

「あはは。研修資料とか指導カリキュラムとか、そういうのはないんでしょうか?」

「ないない。そんなんあったら前のバイトの子も辞めてない」

初日のことを思い出して二人で含み笑いをしていると、階段から足音が聞こえて二人同時に肩を竦めた。

「おはようございます、伸也君、三森さん」

「おはようございます、マスター」

白いシャツの男性が階段を降りてくるのが見えて、私はぺこりと九十度のお辞儀をする。

比べて、片山さんは「っす」とか語尾だけが聞こえた挨拶にもならない音を発しただけでするりと厨房に入っていった。

マスターと二人取り残されて、一瞬の沈黙に私は忙しなく思考回路を働かせる。

なぜだか彼は私の方をじっと見下ろしていて、それが余計に私を焦らせていると、わかってはいただけないのだろうか。

「えーっと」

バイトを始めて一週間、できることは少なくても、開店前の流れくらいは掴んでいる。

入口周辺の掃き掃除はしたし、後は。

「あ! テーブルチェック、してきます!」

「はい、よろしくお願いします」

ダスターを掴んでもう一度お辞儀をすると、私はテーブル席の方へと、逃げた。

片山さんは優しいし話しやすいのだけど、マスターは少し、怖い。

別に怒られたわけでもないのだけど……無表情なことが多くて感情が見えないから。

テーブル席をダスターで拭いて、シュガーポットの中身と紙ナプキンを確認する。

少なければ、後で補充するためテーブル席を覚えておく。

といってもそれほどたくさんテーブルがあるわけじゃないから、簡単だけど。

全テーブルを回って腕時計を見ると、ちょうど開店時刻の九時を指していた。

私はカウンターに視線を向ける。

「マスター、お店開けていいですか?」

「はい、お願いします」

客席に面したカウンターがあり、マスターはその中でカップを一つ一つ湯を張った平たい鍋に浸している。

更に内側には厨房と対面しているカウンターがあり、そこからひょっこりと片山さんも顔を出した。

「慌てて開けても、客なんてそうそう来ないけどねー」

「ちょっ、そんな」

「無駄口叩いてないで、早く仕込みしてくださいね」

「へーい」

揶揄するような口調の片山さんに、マスターは慣れているのか淡々と言い返す。

たった一週間だけど、二人のそんな空気に最初は戸惑ったけれどもう慣れた。

マスターはノンフレームの眼鏡をかけた、涼やかな目元が印象的な美人さん。

片山さんはモデルさんみたいに整った顔立ちだけど雰囲気が兎に角チャラい。けど、多分、案外気遣い屋さんで優しい。

そして、まったく見栄えもしない私。

このカフェの従業員は、この三人だけだ。

―――あの二人が、カウンター内で揃って立ってれば十分客寄せになりそうなのになあ。

そんなことを思いながら、店の入り口を開け表のプレートを『close』から『open』にひっくり返す。

憧れた、あんなに華やかに見えた『flowerparc』(フラワーパルク)はすっかり寂れたお店になっていた。

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    小さく舌を出して、ぷいっとそっぽを向いて離れると、片山さんの情けない声が聞こえた。「えっ、ちょっ、ごめんって」「しりませーん」と背中を向けたままカウンターに戻ると、ちょうど静さんが立ちあがったところだった。「あっ、おかえりですか?」「ええ、今から映画を見に行く予定なの。篠原監督の、ほら」「あっ、戦場のバラ? テレビでもすごく宣伝してますよね!」いいなあ、とうらやましく見つめると、静さんは嬉しそうに笑って聡さんの腕を引く。「早く行こう? 始まっちゃう!」「はいはい。……俺、恋愛モノって全く興味なんだけどなあ」彼はすこぶる面倒くさそうに言いながら、丁度の金額をカウンターの上に置いた。そんな様子にも、静さんは嬉しそうに頬を綻ばせる。「ありがとうございました」必要以上にくっつくこともなく、ただ隣で彼の袖にそっと触れる……それだけなのに。あの人が連れてる他の女性の誰よりも、幸せそうに笑ってる。温度差を感じてただただ、苦しい、そんな二人の背中を見送った。静さんがいつもと違う様子で店を訪れたのは、それから一週間後のことだった。「いらっしゃいませ」私が笑顔で迎えると、いつも通りに笑ってはくれた。だけど、それはどこか弱々しく覇気がなく、いつもならカウンターに座るのに、今日は窓際のテーブル席だった。「今日は、待ち合わせですか?」「そうなの。ちゃんと来るかしらね……」水のグラスを目の前に置いて尋ねると、肩を竦めて冗談ぽく言ったけど。来ますよ、当然じゃないですか、って。その場しのぎの慰めみたいで口に出すのを躊躇ってしまった私を、静さんが見上げて笑った。「なんで綾ちゃんが泣きそうなのよ」「えっ? いえ、そんなことないですよ?」「すごく心配って顔に書いてある」私って、そんなに顔にでるのかな?「すみません」と頬を摩りながら悄然としていると、クスクス笑われてしまった。「あの人、約束は破ったことないのよ。ただ、今日は大事な話があるって言ったから……逃げるかもねって、思っただけ」「そう、なんですか」当然、どんなお話なのか尋ねるわけにはいかないから相槌だけ打ったけれど、もしかして別れ話だろうかと気になって仕方がない。だけど静さんからはそれ以上話は続かず、ホットミルクのオーダーを承って会話は終わってしまった。カウンターからテーブル席を見

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    私の表情が固まったことに片山さんが気付いたのか、ふっと我に返ったように目を見開いた。慌てて作業台から腰を離し取り繕うように言葉を繋ぐ。「……悪い、意地悪言うつもりじゃなかったんだよ。ただ、あんまり感情移入したら綾ちゃんがしんどいだろうって」「いいえ、本当のことだし」「余計なこと言った、ごめん」いつも揶揄するような言い方をしてもどこか優しい片山さんが、明らかに苛立ちを滲ませたことに私も少し驚いた。けれど、こうして私よりずっと背の高い人が素直に項垂れるのを見ると、怒る気もほんの少し傷ついたこともすぐに薄れてしまった。「大丈夫ですよ、ほんとのことだし」「ごめんって」笑顔で首を振って大丈夫だと言ったのに、片山さんは眉を下げ切なげに目を細めていた。「……まだ、『悠くん』のことが好きだったりすんの?」「えっ……」そんな表情で近づかれたら、私の失恋でそんなに心配をかけてしまってるのかな、と私の方が申し訳なくなってしまう。私は俯いて、片山さんの問いかけの答えを探した。悠くんのことは今も好きだけど、それは本当に恋だったのかなと今になるとよくわからない。「好きですけど……恋とはもう、違うような気がします」静さんと話すようになってふと考えたことがある。苦しくても想い続けたり傍に居続けるなんて、私にはとてもできなかったし考えもしなかった。静さんの恋に比べて自分の気持ちはとても幼く、本当に恋だったのかとさえ思ってしまう。「自分でも、よくわからないですけど。悠くんの顔を見ても、もう割とへっちゃらだし」いつかまた、誰か好きになったら……その時に、今はわからないことも理解できるようになる、そんな気がする。だから今は案外前向きなのだと笑顔で顔を上げたら、思ったよりも近い距離に片山さんが立っていた。「……だったら、いいけど」急になれない雰囲気に飲みこまれて、後ずさりもできなかった。厨房の明りが片山さんの真後ろにあり、表情に陰りを作る。何もされているわけじゃないのにひどく威圧を感じるのは、目の前の人が急に「男の人」に見えたから。「静さんに感情移入しすぎて、失恋の傷も癒えてないだろうにって思ったら……」心配でさ。と小さく付け足した片山さんを見上げて、私は言葉を探すこともできず身動き一つできなかった。片山さんの手が近づいてきて、ああ、大きな手だなって

  • 君と花を愛でながらー消えない想いを胸に閉じ込め、私はそっと春を待つー   3話 ピンクのバラの花束を《2》

    「綾ちゃんは、いつがお休みなの?」「毎日フル出勤です」「へえ、そっか。じゃあ定休日、いつだっけ?」「……水曜です」これは答えないわけにはいかなくて、渋々といった調子をわざと見せて言うけれど。「じゃあ、水曜なら遊びに行けるんだ」「行けません」「冷たいなあ。でも夜だったら尚更誘ってもきてくれないでしょ?」にこにこと笑って勝手に話をつなげる、この人にはまるで通じない。仏頂面で目も合わせないでいると、お手洗いから静さんが戻ってきていた。「もう、聡……また綾ちゃんに迷惑かけてたの?」「違うよ、ちょっとからかってただけ」困ったように眉尻を下げる静さんが、私に「ごめんね」と両手を合わせた。私は笑って顔を横にふるけれど……。からかってただけ?!よく言う!と、飄々と言ってのける男を睨んだ。静さんが居ない時、しょっちゅう私に話しかけて食事だなんだと誘うくせに。それだけじゃない、他にもいろんな女の人とここへ来る。少し前には、休日の朝早い時間帯にショートカットの女性とやってきた。珍しい時間帯だな、と思っていると片山さんが言ったのだ。『あー……ありゃ、朝帰りかな』女性の細い腰を抱いて密着して入ってきた様子を思い出すと、腹が立って今すぐここでぶちまけてやりたいと思ってしまう。言わないのは、静さんが悲しむのがわかってるからだ。彼女と歩く時、この二人はそんなにベタベタくっついて歩いたりはしない。他の女の人とそんな風に歩いてると知ったら……傷つくに決まってる。カラコロとカウベルが鳴って、お客様かと思ったら一瀬さんがビニールの袋をぶら下げて入ってきた。カウンターに座る二人を見て、薄く微笑むと「いらっしゃいませ。いつもありがとうございます」と挨拶を交わしながらカウンターまで辿り着き、私は野菜の入ったビニールを受け取ろうと手を差し出す。「買い出しお疲れ様です」「いいえ。ホールお任せしてすみません」ビニール袋が手渡される瞬間、不意に顔が近づいて一瞬どくんと心臓が鳴った。「何もありませんでしたか?」小声でそう尋ねられても、妙に狼狽えてしまった私はただ瞬きをして「えっと、何も?」と大した返事もできなかった。何か、っていうのが何をさしているのかもよく理解できなくて。それでも一瀬さんは納得したのか、一度頷くと「何もないならいいです。すみませんが

  • 君と花を愛でながらー消えない想いを胸に閉じ込め、私はそっと春を待つー   3話 ピンクのバラの花束を《1》

    季節は春。通りの向こう側にある桜の木から、風に吹かれたピンクの花びらが舞い散る中、初々しい新入生らしい姿が緩やかな坂を上っていく。私は未だフリーターのままだけど、そんな季節を案外穏やかに見送ることができ、葉桜に変わったところで急激に気温が上がった。ツツジの花が色とりどりにあちこちで咲き始める季節、特にカルミアという花が私は好きだった。小さな蕾が密集して、すべて開くと白いパラソルが開いたようになる。……可愛いパラソル。こんな白い日傘が欲しいな。そう思いながら、今日も軽やかにカフェまでの傾斜を歩いた。「おはようございまあす。あ、マスター手伝います」「おはようございます。こちらは大丈夫ですから、カフェの方の準備をお願いします」店に着くと、一瀬さんが花屋スペースの掃き掃除をしてくれていて、近寄った私に目線でテーブル席の方を示した。私は「はあい」と返事をしてから、荷物をカウンター下の手荷物置き場に押し込みショートエプロンを腰に巻く。この頃は、以前より少し早めに店に来るようにしている。でないと、一瀬さんが花屋の方の片付けを全部ひとりでしちゃうから。掃き掃除なんかはやらせてくれるけど、お花の処分はやっぱり私にはさせないように考えてくれている気がする。今日も多分、さっきまでお花を刻んでいたんだろう。だって、私がしていたみたいに、まだ傷みの少ない花を落として作業台に置いてくれているのが見えたから。「……仕事だから、そんなに気にしないで欲しいのに」以前よりはずっとお客さんも増えてブーケや切り花も売れ始めたから、処分する数は減ったと思う。それでも、一瀬さんは自分で処分しようとして、私の手は煩わせまいとする。どうしても処分する切り花が出るのは、仕方ないことだと思うのに。私は作業台に置かれた花を手に取って、一瀬さんに振り返った。「マスター、これで今日はドライフラワー作ってもいいですか?」いつもは生花のまま飾るのに、と思ったのだろう。一瀬さんは不思議そうに首を傾げた。「ドライフラワーですか? 構いませんが……」「シリカゲルに入れたら、綺麗な色のまま乾燥させることができるんです。それをガラスの器に入れて飾ったら頻繁に入れ替えなくても済むし……」上手に作る練習にもなるかな、と思って。ドライフラワーをいれたフラワーボックスとか、例のセットで選べ

  • 君と花を愛でながらー消えない想いを胸に閉じ込め、私はそっと春を待つー   2話 イキシアの花言葉《5》

    せつなかったのは、私の失恋に対してではなく、苑ちゃんの気持ちを想ったからで……自分自身の痛みではなかったことに気が付いた。それはきっと、このカフェの存在のおかげに違いないけれど。毎日この店に通って、優しい空気に触れて自分に出来ることを見つけて……姉や悠くんに依存していた心が少しずつ自然に、離れることが出来ているんだ。「ありがとうございます。何気に優しいですよね片山さんって」銀のトレーに水の入ったグラスを乗せて、ふふ、と笑ってみせると、片山さんはちょっと頬を染めて。「俺は女の子にはいつも優しいの」と、照れ隠し丸出しの発言をした。「はい、そうでした。いつも優しいですよね」初めて片山さんを揶揄できる立場に立ったとちょっぴり優越感を抱きながら、水のグラスを持っていこうと踵を返す。すると、悠くんが二人に手を振ってテーブルを離れるところだった。「あれ? 悠くん、帰っちゃうの?」少し大きめに声が届くように尋ねると、悠くんはこちらを向いて私にも手を振ってくれた。「姿が見えたから寄っただけ。ごめんね邪魔して」そう言って、足早にお店を出て行った。「なんだ。一緒にご飯でも食べに行くのかと思った」グラスの乗ったトレーをカウンターに戻しながら、私は少しほっとしたことは否めない。あの三人の構図が少し前の私達三人に見えて、私と同じ立ち位置になる苑ちゃんの気持ちを想うと少し胸が痛かった。もう一度、悠くんの去った二人のテーブルに目を向ける。私はそこで、まるで映画のワンシーンのような一瞬に目を奪われた。「……」声が出ない。苑ちゃんからはさっきの悠くんがいた時のような、棘さえ感じるような無表情は消えていた手元の花の香りに恍惚として目を閉じる姉の横顔に、そっと伸びていく細い指先。苑ちゃんの横顔はまるで何かを慈しむように和らいでいる。その横顔が、誰かのものに重なる錯覚に、私は目を瞬いた。「綾さん? どうかしましたか」一瀬さんのその声も、確かに聞こえているのになんだか遠くて、すぐには反応できなかった。指先が頬に触れて、気づいた姉が顔を上げる。何かを拭うように親指が動いて、すぐに離れていった。「綾さん?」「あっ、はい! すみません、なんでもないです」もう一度尋ねられて慌てて一瀬さんに向けて頭を振った。そしてすぐに視線を戻すと、苑ちゃんが親指を見せて

  • 君と花を愛でながらー消えない想いを胸に閉じ込め、私はそっと春を待つー   2話 イキシアの花言葉《4》

    「ああ……本当ですね。こうしてみると、雰囲気が綾さんとお姉さん、よく似て見えます」「……あの。それってどういう……」それって私が見るからに甘えん坊ってことでしょうか。その通りだけどまさか一瀬さんにそんな風に言われるとは思わなくて、ちょっと唇を尖らせて拗ねた顔で拭いたお皿を一瀬さんに差し出した。すると、一瀬さんがふっと苦笑いを零してお皿を受け取る。「……そっくりですよ、その表情」言いながら視線を姉がいる方へと向けた。見ると、姉も私と同じように唇を尖がらせたまま上目使いで苑ちゃんを睨んでいた。「あんなに思いっきり、拗ねてないですもん」そう言って、きりっと表情を引き締めて見せると。すると、一瀬さんはいきなりくるっと背中を向けて、「ぶふっ」と吹き出し肩を震わせた。「ちょっ……ひどいですそんなに笑うなんて」「なになに、えらく楽しそう」恥ずかしくなって、顔が熱くなったところに片山さんも厨房から顔を出す。私はまだ肩を震わせる一瀬さんを指差して言った。「マスターが笑うんです、私が甘えん坊だって!」「え、それ今更笑うとこ?」「片山さんまでひどい!」確かにそうだけど、ずっと甘えてたけど!これでもちゃんとお姉ちゃんや悠くんから卒業しようと頑張ってるのに!そう思いながら、結局口元が自然と尖がる私は、きっと間違いなく子供っぽい。だけど、そんな私を見て片山さんはもちろん、一瀬さんまで楽しそうに笑ってくれたから、なんだか少し嬉しかった。最初は怖いだけだった一瀬さんが、この頃ちらちらと笑った顔を見せてくれることが多くなったから。だから、私は今のこのお店の空気が、とても好きだ。少しずつお客さんが増えてきているのも、そういうのが案外お客さんにも伝わってるのじゃないかなって思う。最近よく来る若いカップルさんも、カウンターで私や一瀬さんと話しをしてくれて、楽しいと言ってくれる。カフェのメニューやブーケは勿論、こんな風にお店の空気に惹かれてお客さんが来てくれるっていうのも、いいなって思えた。「わあ、綺麗! いい香り!」姉の少し興奮したような高いトーンの声が響いて、はっきりと耳に届いた。見ると手を口にあてて肩を竦ませながらも、ブーケを片手に嬉しそうに笑っている。「あ……あれ、お姉ちゃんにだったんだ」拗ねている姉のご機嫌をとる為のブーケだったのかと

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